覚えていたいことは忘れてしまったことかもしれない

 
 冬の地上に出たあとは狂った時間の中を歩いた。狂った時間の中を歩き続けて、とうとうほんとうに狂ってしまう。どれだけ言葉を探しても何ひとつ見つけることができないまま、深夜であるはずのファーストフード店の2階の窓から、道を一本隔てた隣の店を眺めていた。極彩色の衣類に埋もれた暗い店内をオレンジ色のライトが照らし、商品と商品の隙間から時折店員と思しき体格の良い男性の姿が見えた。BGMで流れているであろうヒップホップのベースラインが聞こえる気がした。あのお店は開いているのか閉まってるのかわからないね。やっと見つけた言葉はそんな他愛もないものだった。それでも言おうとしてはためらう。冷めはじめたカフェラテのカップを両手で口に運びながら、何度も頭の中で練習する。意を決してようやく声に出して言う。あのお店は開いているのか閉まっているのかわからないね、たぶん開いているのだろうけど。路上に目を移す。街灯に提げられているのは、商店街の名前を記した緑色の旗。何もかもを覚えていようと思った。覚えていたいことは忘れてしまったことかもしれない。こちらには聞こえない低いリズムに合わせて誰か踊ればいいのにと再び隣の店を見る。人影はなく、存在するかどうかもわからないターンテーブルが回転を続けてこちらには聞こえない音楽を流し続ける。狂った時間はその場所では正しい時間なのだ。日常ではない非日常なんてないんだ。
 鏡の中で息絶えてしまえばよかったのだと今も思う。さっさと息絶えてしまえばいいのだと誰かが言うだろうといつも思う。慌ただしく通り過ぎた昼間のあとで夜が始まりかけると、話しかけるための言葉を探している。かけらすら見つけることができないまま、小さく鳴くばかりで、わたしにはずっと言葉がないままだ。誰かの残した轍の上を歩き続けている。轍を残した誰かの涙を思う。かわいそうに、かわいそうに。傲慢であるのかもしれない。春がそこまで来ている。