海の底

 
 路上。街灯も照らさぬ暗がりの中、携帯電話で楽しそうに話している人を見かける。 あなたの言葉には感情がない、と責めたくなる。でも実際はそうではないのだろう。あらゆる言葉に含まれている感情のどれくらいをわたしは認識しているのだろうか。
 携帯電話で話す人の上体は笑うたびに大きく揺れていた。 遠くの傘の上に降る雨粒の音を聞くと、雨が降ってきた。コツコツと通りすぎる靴音は、いつも知らない場所へと向かう。遮断機の音は暗闇に赤い色彩を連れてくる。どんな言葉も届かない、暗い海の中のような日々にあって、そんな音が混じる声だけを待つ。見上げた海面に揺らめく光に手を伸ばそうとしてはためらう。誰とも関わらなければよかった。海の底で夢のない眠りにつきたい。そうでなければ、元の場所に帰りたい。
 路上。楽しそうに話すその人の相手も、きっと笑っているのだろう。楽しそうにしている人を見るのはいいな、と思う。