桜の死

 

 勝てなければ負け。ドローはない。負けてしまえば本当に負けで、どう足掻いても勝者には勝てない。勝ち負けではないとあなたは言うだろうか。それでもそんなことはないんだ実際は。感情的になったら負け。多く好きになった方が負け。たぶん人形でいられたらよかったのだろう。
 川沿いに並ぶ桜の列の下には、たくさんの人々がわたしたちと同じように歩いていた。桜の下の人々は皆それぞれに笑っていた。あのときわたしは笑っていたのだろうかと思う。楽しかったよねと問えば楽しかったねと答えがかえってくる。ということはきっとわたしも笑っていたのだろう。いつだったか誰かが撮ったモノクロームの写真の中の、A4サイズぐらいに引きのばされたわたしはみにくく笑っていて、それでも「なんだちゃんと笑えるじゃないか」とその写真を見た別の誰かがつまらなそうに言った。何だか普段全く笑わないみたいな言い方が癪に障った。遅れてきた感情はいつも置いてけぼりであとは自分でなんとかするしかない。ちゃんと言えないのは負け。あとはただの遠吠えで。
 去年見た桜もきっと今日の雨で散っているのだろうとぼんやり思う。
 
 桜の季節に死んでしまった彼女を最後に見たのはいつだったか。若い頃の彼女のことが好きだった。彼女が死んだとき、**さんがみかねて連れて行ったのだと誰かが言った。**さんは神かなにかですか馬鹿馬鹿しい、と思ったけれど口には出さなかった。お悔やみに行ったのは葬儀もすっかり終わって何日が過ぎた後だった。彼女が何故死んだのかは誰も知らない。何故、と聞いても、かわいそうだから調べなかったのだと彼女の夫は言った。彼がさびしそうにしていたのがとても意外だった。仏壇に飾られた写真の中の彼女は笑っていたけど、好きな笑い方ではなかった。
 
 あんまり笑わなくなったからたまに笑うと自分で驚く。そういえば昔普通に笑ったら、「笑った顔初めて見た」と驚かれたことがあった。もともとそんなに笑わない人だったのかと今になって思う。いつかもらった写真は捨ててしまったから、そのときどんなふうに笑っていたのかなんて知らない。笑えばいいのになんて言わないで。