箱の中

 曇りひとつないガラスの自動ドアを抜けて真新しいビルに入る。広く明るいロビーには、いかにもという感じのソファとローテーブルのセットが余裕のある距離を保って三組ほど配置してあるが、誰も座っていなかった。静かだ。受付もビルの案内表示もどこにも見当たらない。BGMもない。とても静かだ。コツコツという自分の靴音を聞きながら、エレベーターを探して人気のないフロアをしばらくうろつき、フロアの奥に向かって歩いた。照明が間引いてあるのか、辺りは少し薄暗くなっていた。

 のっぺりとした冷たい壁に狭めの間隔で縦の長方形がいくつか並んでいるのを発見した。長方形には真ん中に切り込みが入っており、それぞれの右側には無表情な丸いボタンが縦に二つ配置してあった。もしかしてこれがエレベーターなのだろうかと考えてみたが、どうしても自信が持てなかった。長方形の短辺上部にも長辺の右側にも階数表示がなかったのだ。それは火葬場を連想させた。上のボタンを押して入り口を開ける、棺を入れる、もう一度上のボタンを押してドアを閉める、下のボタンを押して点火する、1時間後に再びドアを開けて誰かが骨を回収する……いやいやいや。周囲を見渡した。誰かに聞いてみたい。これはエレベーターですか火葬場の炉ですか。違う、エレベーターはどこですかと聞いてみるべきなのだ。しかしやはり誰もいない。意を決してボタンを押す。音もなくドアが開く。なんのことはない、普通にエレベーターだった。真新しいのに人に優しくないな、これがデザインの敗北というものなのかとぶつくさ考えながら箱の中に足を踏み入れた。箱の中は普通のエレベーターの内部だった。少しほっとして数字が記されたボタンと「閉」と書かれたボタンを順に押す。音もなくドアが閉まる。疲れていることを急に思い出した。壁に寄りかかり溜息を吐く。箱の中には温度がない。ゆっくりと目を閉じた。

緩い繋がり (3)

 Twitterのおすすめのアカウントに時々南無さんが現れて、どうしているのかな、お元気かな、とそのたびにぼんやり思っていた。でも先日、亡くなったことを知った。

 直接お会いしたことはなかったが、今は無きContemporary Unitで大変お世話になった方のうちの一人である。ちょうど個人的なトラブルを抱えていた頃で、いつでも電話してくださいと連絡をくださったこともあったが、なんだか申し訳なくて結局電話をかけることができなかった。その後、一旦は落ち着くも、別のトラブルで精神的にかなり参ってしまった。その時は奥様から「南無も『えんじさん大丈夫か』って心配しているよ」と連絡いただいたこともあった(そう、奥様にもいつも本当にご心配をおかけしてばかりだった)。

 Twitterの存在を知ったのも南無さん経由だった。「相変わらず暗いねえ」とよくからかわれたっけ。

 

 色々なことを思い出そうとした。でも記憶はどんどん曖昧になっている。これまでの人生で一二を争う辛い時期だったのだ。嫌なことは極力思い出さないことにしているせいか、辛い記憶と一緒に忘れてしまったのかもしれない。でも、当時のweb上でのやりとりは、私にとって本当に救いだった。あの緩い繋がりがなければ、耐えられなかっただろうと思う。

 

 あの頃繋がりがあった方たちとは、今はもうほとんど関わりが無くなってしまった。寂しい。でも仕方がない。そういうものなのだ。

 みなさんお元気ですか、と思ってみる。おそらく届かないだろう。

緩い繋がり (2)

 Twitterでフォローしていた方の訃報を受け取ってからしばらく経つ。彼女の生前は特にやりとりはしていなかった。完全に遠くから眺めているだけの人だった。けれど彼女の言葉が好きだったし、フォローされた時やふぁぼられた(敢えてこう書く)時は本当に嬉しかった。ああ、読んでくださったのだな、と。彼女の書く言葉が大好きだったのだ。今もまだ、たぶんこれからも。

 

 Twitterが休眠アカウントを削除していくというニュースが流れてきた。

Twitter、休眠アカウント削除へ 対象アカウントに12月11日までにログインするよう警告 - ITmedia NEWS

 彼女のアカウントもいつか消えてしまうのだろうかと悲しくなった。人は二度死ぬ、とはよく言うけれど、これじゃ「三度死ぬ」ではないか、とぼんやり思った。使われなくなってしまったアカウントを残す弊害は確実にあって、それでも残したい、残して欲しいアカウントがある。亡くなられた方の意思は、遺された方の思いは…何が最善なのかはケースによる、としか言いようがないのだろうか。

 私には人様のアカウントのことをとやかく言う資格なんかない。好きだった人がいなくなるのはとてもさびしい、それが全てである。